吉田松陰と王陽明

先人たちの残した言葉に出会い、自分の知恵や糧にすることのできる私たちは幸せだと思うことがあります・・・

千年以上も前から、日本人は歌を詠んできましたが、特に人生の最期に「辞世の句」を残すという文化がありました。
先人たちは、何を大事にしてきたのでしょうか。どのように自分自身や社会と向き合ってきたのでしょうか。後世に何を語り継ごうとしたのでしょうか。

吉田松陰には「辞世の句」と呼ばれるものがいくつかあります。

 辞世  吉田松陰

我今 国の為めに死す
死して 君親に背かず
悠々として 天地に事う
照鑑は 明神に在り

また、この和歌は留魂録の冒頭で有名ですが、塾生たちに向けられたものでしょう。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

吉田松陰が刑に処せられるにあたり、たとえ自分が朽ち果てても志は滅びることがないという気魄が感じられます。
受け継がれてきたものを、自分自身が受け継ぎ、次世代に伝えるために詠まれました。
後世に名を残す人材を輩出し、優れた教育者と言われた吉田松陰ですが、彼が伝えたかったものとはどのようなことだったのでしょうか。

吉田松陰は、野山獄で「士規七則」を作り、規範とすべき七則を挙げています。
その内容は、人が人たる所以は忠孝が根本にあること、志を立てて万事のもととすること、交友を選んで仁義の行いを助けること、書物を読んで聖賢の教えを考えること。そして君臣一体を説いています。この「君臣一体」とは、吉田松陰が『孟子』をよくしていたことからもわかるように、王は、民の喜びを自らの喜びと感じ、苦しみもまた同じように苦しむことができるという考え方です。
さらに吉田松陰について特筆するならば、兵学、国学、史学、儒学を習得したことと、陽明学に傾倒していったことだと思います。

陽明学と言えば、高杉晋作、西郷隆盛、河合継之助、大塩平八郎などもその影響を受けています。
陽明学の「知行合一」は、王陽明によって説かれました。王陽明は、明代、朱子学を批判し、孟子の心学の継承者として「心即理」説を展開しました。「知ることと行うことは合わさって一つである」(伝習録)、認識と実践を一致させなけねばならないと説きました。
王陽明の思索は、逆境に身を置くことによって生まれました。実際の体験や行動を通じてこそ、認識を深めて心を鍛錬できるという、自己の鍛錬に重点を置いたのです。逆境こそ、自己を鍛錬できる絶好の機会なのです。

 泛海 王陽明
険夷 原 胸中に 滞らず
何ぞ異ならん 浮雲の 大空を 過ぐるに
夜は静かなり 海涛 三万里
月明に 錫を飛ばして 天風に 下る

この王陽明の詩は、逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることはないということを言っています。浮雲が空を通り過ぎるようなものなのです。静かな夜の大海原を月明に乗じて錫を手にした道士が天風を御しながら飛来するようなものです。とても広大な心境であり、左遷された王陽明が自身の与えられた境遇を素直に生きていることを感じることができます。王陽明の目指すところは、逆境体験を喜べる生き方ができることなのでしょう。

吉田松陰もまた逆境に身を置きながらも行動し続ける強さがありますが、その源泉には、こうした陽明学の影響があったと思います。「失敗をすればするほど志はますます堅くなる。」(回顧録)

吉田松陰の思想や言葉を掘り下げていくと、絶望や失敗を乗り越えるヒントを見つけることができると思います。

                                        (2016年2月9日)