6月19日(日)、長岡市で行われた新潟県詩吟神風流総元代範「長恨歌」研修会の模様です。
長恨歌は、白居易(字は白楽天)の代表作であり、120句からなります。
唐王朝の玄宗と楊貴妃の物語ですが、紫式部『源氏物語』の「桐壺の巻」で長恨歌の筋書きや構想、語句が見事に溶け込まれていることでも知られ、日本の文学に大きな影響を与えることとなった作品です。
長恨歌がつくられたのは、唐の時代中期、806年。楊貴妃の死後から50年後です。
白居易が35才のときでした。白居易は、29才で科挙に合格し、優秀な若きエリートとして、唐の都、長安の西の郊外に赴任しました。長安から西、約70キロ程いったところに、馬嵬がありますが、ここは、楊貴妃が亡くなった場所であり、楊貴妃と玄宗にまつわる話が多く残されていました。そうしたことから、その地で伝承されていた話をもとに、白居易は、長恨歌を書きあげたと言われています。
研修会では、長恨歌の解説を担当しました。
去年、東京の「長恨歌」研修会でも解説をしたのですが、その時は、120句を時系列に三つの場面に分けました。
(1)楊貴妃が栄華を極め、馬嵬で亡くなるまで
(2)玄宗が楊貴妃を追憶する場面
(3)道士、方士が登場して、天上界に住む楊貴妃を探しあてる場面
その後、さらにいくつかの文献を読んだり、詩吟の勉強をしていくうちに、長恨歌の前半と後半の対比が実に見事であることがわかりました。
前半で描かれる楊貴妃と、後半で描かれる楊貴妃を対比的に捉えるという観点から、今回の研修会では、長恨歌を二つの場面に分けました。
(1)傾国の美女
(2)仙女
史実に基づいている前半の部分は、傾国の美女として伝えられる楊貴妃について描かれています。一方、後半部分は、楊貴妃を天上界に探し求める、という白居易が創作した物語ですが、仙女となった楊貴妃が描かれています。同じ楊貴妃でも、美しさの違いに注目してみるのも面白いかもしれません。
【参考文献】
総元岩淵神風先生の吟詠指導 |
長恨歌は、白居易(字は白楽天)の代表作であり、120句からなります。
唐王朝の玄宗と楊貴妃の物語ですが、紫式部『源氏物語』の「桐壺の巻」で長恨歌の筋書きや構想、語句が見事に溶け込まれていることでも知られ、日本の文学に大きな影響を与えることとなった作品です。
長恨歌がつくられたのは、唐の時代中期、806年。楊貴妃の死後から50年後です。
白居易が35才のときでした。白居易は、29才で科挙に合格し、優秀な若きエリートとして、唐の都、長安の西の郊外に赴任しました。長安から西、約70キロ程いったところに、馬嵬がありますが、ここは、楊貴妃が亡くなった場所であり、楊貴妃と玄宗にまつわる話が多く残されていました。そうしたことから、その地で伝承されていた話をもとに、白居易は、長恨歌を書きあげたと言われています。
研修会では、長恨歌の解説を担当しました。
去年、東京の「長恨歌」研修会でも解説をしたのですが、その時は、120句を時系列に三つの場面に分けました。
(1)楊貴妃が栄華を極め、馬嵬で亡くなるまで
(2)玄宗が楊貴妃を追憶する場面
(3)道士、方士が登場して、天上界に住む楊貴妃を探しあてる場面
その後、さらにいくつかの文献を読んだり、詩吟の勉強をしていくうちに、長恨歌の前半と後半の対比が実に見事であることがわかりました。
前半で描かれる楊貴妃と、後半で描かれる楊貴妃を対比的に捉えるという観点から、今回の研修会では、長恨歌を二つの場面に分けました。
(1)傾国の美女
(2)仙女
史実に基づいている前半の部分は、傾国の美女として伝えられる楊貴妃について描かれています。一方、後半部分は、楊貴妃を天上界に探し求める、という白居易が創作した物語ですが、仙女となった楊貴妃が描かれています。同じ楊貴妃でも、美しさの違いに注目してみるのも面白いかもしれません。
【参考文献】
・下定雅弘『長恨歌』勉誠出版
・岡村茂編『白氏文集』明治書院
・陳舜臣・松浦友久『漢詩で読む中国歴史物語』世界文化社
・九州大学中国文学会編『中国文学講義』
・川合康三『白楽天』岩波書店
下定雅弘『長恨歌』の装丁は、上村松園「楊貴妃」。
上村松園は女性で初めて文化勲章を受賞した日本画家です。
長恨歌 白居易
漢皇重色思傾国 漢皇 色を重んじて 傾国を思ふ御宇多年求不得 御宇 多年 求むれども得ず
楊家有女初長成 楊家に女有り 初めて長成す
養在深閨人未識 養はれて 深閨に在り 人未だ識らず
天生麗質難自棄 天生の麗質 自ら 棄て難く
一朝選在君王側 一朝 選ばれて 君王の側に在り
回眸一笑百媚生 眸を回らして 一笑すれば 百媚生ず
六宮粉黛無顏色 六宮の粉黛 顏色無し
春寒賜浴華清池 春寒くして浴を賜ふ 華清の池
温泉水滑洗凝脂 温泉 水滑らかにして 凝脂を洗ふ
侍兒扶起嬌無力 侍児 扶け起こせば 嬌として力無し
始是新承恩澤時 始めて是れ 新たに恩沢を承けし時
この場面では、まず、玄宗が楊貴妃と出会った経緯について詠まれています。
楊貴妃は、姓名は楊玉環といい、蜀(四川)で生まれたようです。生まれながらにして、類まれな美貌は、世間が放っておくはずはなく、宮中に選ばれ、17才のとき、玄宗の子、寿王の妃となりました。
玄宗は28才で唐王朝の第6代皇帝になったのですが、皇后は3人いたようです。一番、寵愛した武恵妃が亡くなったあと、悲しみに打ちひしがれていたのですが、美しい楊玉環を見出し、すっかり心奪われてしまいました。
玉環22才、玄宗56才の時でした。玄宗は、玉環を自分の側におきたいと思うのですが、息子の妃です。そこで、玉環を女道士として俗世を捨てさせ、「太真」の名を与えて宮中に入れました。
道士というのは、当時、皇帝の側に出入りできる役職でした。道士として、自分のそばにおき、側室の中でも最高位の貴妃の称号を与えました。
こうした史実までは、詩には書かれていません。楊貴妃の美しさが損なわれることなく、艶めかしい美しさが散りばめられています。
「楊貴妃の肌はあくまで白く、水をはじくほどに艶やか」で、「にこりと笑うと、その艶やかさが広がる」のです。
楊貴妃が入浴した華清の池は、長安の北東約驪山の麓にある温泉地です。玄宗が離宮として造営しました。現在、楊貴妃が使った温泉が復元されています。
雲鬢花顔金歩揺 雲鬢 花顔 金歩揺
芙蓉帳暖度春宵 芙蓉帳暖かにして 春宵を度る
春宵苦短日高起 春宵 短きを苦しんで 日高くして起く
從此君王不早朝 此より君王 早朝せず
承歡侍宴無閑暇 歓を承け 宴に侍して 閑暇無く
春從春遊夜專夜 春は春遊に従ひ 夜は夜を専にす
後宮佳麗三千人 後宮の佳麗 三千人
金屋妝成嬌侍夜 金屋 妝成って 嬌として夜に侍し
玉樓宴罷醉和春 玉楼 宴罷んで 醉て春に和す
姊妹弟兄皆列土 姉妹弟兄 皆土を列し
可憐光彩生門戸 憐む可し 光彩の門戸に生ずるを
遂令天下父母心 遂に天下 父母の心をして
不重生男重生女 男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ
驪宮高處入青雲 驪宮 高き処 青雲に入り
仙樂風飄處處聞 仙楽 風に飄って 処処に聞こゆ
緩歌慢舞凝絲竹 緩歌慢舞 絲竹を凝らし
盡日君王看不足 尽日君王 看れども足らず
このように、楊貴妃が皇帝の寵愛を受け、春の景色の中で、宮中で華麗な日々を送っていることが描かれています。
「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身にあり」とありますが、膨大な数の宮女の中から選ばれた楊貴妃ですから、その美貌は並外れたものに違いないという想像を、白居易は読み手に与えます。
栄華を極めた楊貴妃ですが、楊貴妃だけでなく「姉妹弟兄、皆土を列し」とあるように、一族の繁栄ぶりも目をみはるものがありました。
なかでも、楊国忠は宰相にまでなりました。
しかし、必要以上の権力を与えられたことに不満を感じ人たちもいました。
安禄山の謀反を見抜いていた楊国忠ですが、逆に安禄山を謀反に追い込んだと誹謗され、最期は国賊として誅殺されました。
安禄山は、ペルシア系と突厥(トルコ)系の間に生まれた胡人で、六、七か国語の言語を話せたといわれています。並外れた体格で、戦功によって節度使に昇進し、玄宗の信頼も厚かったのですが、節度使として着々と力をつけていきました。755年、楊国忠討伐を名目に、范陽(北京付近)で挙兵し、洛陽を陥落させました。自ら燕王と称し、帝位に就きました。
次は、安禄山の乱が起こった場面です。
「霓裳羽衣曲」は玄宗の宮廷を象徴する曲ですが、それが軍楽「漁陽瞽鼓」に圧倒されるという表現で、都の陥落を表しています。
漁陽瞽鼓動地來 漁陽の瞽鼓 地を動かして来たり
驚破霓裳羽衣曲 驚破す霓裳羽衣の曲九重城闕煙塵生 九重の城闕 煙塵生じ
千乘萬騎西南行 千乗万騎 西南に行く
西出都門百餘里 西 都門を出づること百余里
六郡不撥無奈何 六軍発せず 奈何ともする無し
六郡不撥無奈何 六軍発せず 奈何ともする無し
安禄山の軍は、都に迫る勢いで、玄宗一行、臣下、一族、兵士たちは、都を逃れ、南西の蜀(四川)へと向かいました。しかし、馬嵬まできたところで悲劇は起きました。
一行たちの食料は尽き、空腹と不安で、兵士はいらだち、前に進まなくなったのです。
兵士たちは言います。家族と離れ、一体、なぜ、こんな目にあわなければいけないのか。元はと言えば、玄宗にとりいっている宰相の楊国忠が原因ではないか。そもそも、楊貴妃がいけないのではないか。兵士たちは、楊国忠と楊貴妃の姉たちを殺害してしまいました。しかし、それでもまだ怒りはおさまらず、天下を静めるためには楊貴妃に死を賜るより他ない、という側近たちの申し出を玄宗は受け入れたのでした。
宛轉蛾眉馬前死 宛転たる蛾眉 馬前に死す
花鈿委地無人收 花鈿 地に委して 人の收むる無し
翠翹金雀玉搔頭 翠翹 金雀 玉搔頭花鈿委地無人收 花鈿 地に委して 人の收むる無し
君王掩面救不得 君王 面を掩て 救ひ得ず
回看血涙相和流 回看すれば 血涙 相和して流る
楊貴妃の死と、悲しみに打ちひしがれる玄宗の様子が詠まれています。
玄宗は、傷心のまま蜀に落ち延びますが、楊貴妃を偲び、追憶する場面がその後も続きます。
天下の情勢が変わってもなお・・・。
安禄山は、太子安慶緒に殺されてしまい、長安は官軍によって奪還されました。
玄宗は再び長安に戻ります。昔とは変わらない宮殿、庭ではありましたが、ただ楊貴妃だけがいない・・・。彼女を思い出し、涙する玄宗が描かれます。
太液芙蓉未央柳 太液の芙蓉 未央の柳
對此如何不淚垂 此に対して 如何ぞ涙の垂れざらん
春風桃李花開夜 春風桃李 花開く夜
秋雨梧桐葉落時 秋雨梧同 桐葉落つる時
この5句は、謡曲調でうたいます。玄宗の悲しみがより一層表現されます。
芙蓉をみては、楊貴妃を想い、柳をみては楊貴妃の眉を想う。
私はどうして、大切な人を失ってしまったのだろうか。
哀しみと嘆きが連続する部分が続き、玄宗の痛切な思いが言葉を尽くす限り描かれます。
そうした玄宗の気持ちを何とかしてあげたいと、白居易は、天上界にいる楊貴妃を登場させるという場面を次に用意しています。
後半部分では、物語の世界は一変し、道士、方士という、道教の修験道を極めたような人が登場します。
道士は、弟子の方士に命じ、この世にいない楊貴妃を探しに遣わせます。
楊貴妃は、死後、はるか彼方のようなところにある仙山に住んでいることがわかりました。
方士は仙山を訪れ、楊貴妃と面会します。仙女となった楊貴妃が登場し、楊貴妃の姿が地上にいたときにも増して美しく描かれているのが後半部分です。
後半部分については、次回「七夕の誓い」の場面を中心に書きたいと思います。
方士は仙山を訪れ、楊貴妃と面会します。仙女となった楊貴妃が登場し、楊貴妃の姿が地上にいたときにも増して美しく描かれているのが後半部分です。
後半部分については、次回「七夕の誓い」の場面を中心に書きたいと思います。