8月31日(水) 総元代範の方を対象とした詩吟の研修会が開催されました。開催場所は、秋の全国大会が開催される新宿文化センターです。
研修内容と詩文解説
知天意(示外甥政直) 西郷南洲
一貫す 唯々の 諾
従来 鉄石の 肝
明治5年、西郷南洲の妹の息子である市来政直がアメリカ留学する際に贈った詩です。将来有望であった政直ですが、帰国後は、西南の役で命を落としました。
さて、前半4句の内容は次のようなことが書いてあります。
一旦、ひきうけたことは、ひたむきにやり通さなければならない。それは、元来、鉄石のようなかたい心をもってやりとげるものである。貧居(貧しい家)から優れた人材が出るが、高く評価される偉業というのは、あらゆる困難にうちかってこそ、なしとげられるということだ。
そして5句目は、様々な場面で引用されるような、とても有名な句です。先日引退した広島カープの黒田博樹投手も座右の銘にしていたと報じられて、話題になりました。
「雪に耐ゆるの梅は麗しく、霜を経るの楓葉は丹し」
梅の花は、雪に耐えてこそ、美しい花を咲かせ、楓の葉は、霜をしのいでのちに、見事な赤を色付ける。苦難や試練を乗り越えてこそ、大成するということです。楽な生き方などはないのです。
このような天地の真理をもし、君が理解したならば、どうして安易な道を選ぶことができようか。今、辛くても、困難でも、がんばりなさい。逃げてはいけない。それこそ、天意に従うということだと、西郷の声が聞こえてくるようです。
また、こんな声も聞こえてきそうです。
「人を相手にしてはいけない、天を相手にせよ。」
天意とは、己を尽くし、人をとがめず、わが誠の道をいくことです。天の命じるまま、ひたむきに生きる。「敬天愛人」。まさにその言葉があらわされている詩だと思います。
水戸八景 徳川斉昭
研修内容と詩文解説
知天意(示外甥政直) 西郷南洲
一貫す 唯々の 諾
従来 鉄石の 肝
貧居は 傑士を 生じ
勲業は 多難に 顕はる
雪に耐ゆるの 梅は 麗しく
霜を経るの 楓葉は 丹し
如し能く 天意を識らば
豈敢て自ら 安きを 謀らんや
明治5年、西郷南洲の妹の息子である市来政直がアメリカ留学する際に贈った詩です。将来有望であった政直ですが、帰国後は、西南の役で命を落としました。
さて、前半4句の内容は次のようなことが書いてあります。
一旦、ひきうけたことは、ひたむきにやり通さなければならない。それは、元来、鉄石のようなかたい心をもってやりとげるものである。貧居(貧しい家)から優れた人材が出るが、高く評価される偉業というのは、あらゆる困難にうちかってこそ、なしとげられるということだ。
そして5句目は、様々な場面で引用されるような、とても有名な句です。先日引退した広島カープの黒田博樹投手も座右の銘にしていたと報じられて、話題になりました。
「雪に耐ゆるの梅は麗しく、霜を経るの楓葉は丹し」
梅の花は、雪に耐えてこそ、美しい花を咲かせ、楓の葉は、霜をしのいでのちに、見事な赤を色付ける。苦難や試練を乗り越えてこそ、大成するということです。楽な生き方などはないのです。
このような天地の真理をもし、君が理解したならば、どうして安易な道を選ぶことができようか。今、辛くても、困難でも、がんばりなさい。逃げてはいけない。それこそ、天意に従うということだと、西郷の声が聞こえてくるようです。
また、こんな声も聞こえてきそうです。
「人を相手にしてはいけない、天を相手にせよ。」
天意とは、己を尽くし、人をとがめず、わが誠の道をいくことです。天の命じるまま、ひたむきに生きる。「敬天愛人」。まさにその言葉があらわされている詩だと思います。
水戸八景 徳川斉昭
雪時嘗て賞す 仙湖の 景
雨夜更に 遊ぶ 青柳の 頭
山寺の 晩鐘 幽壑に 響き
太田の 落雁 芳洲を 渡る
花香爛漫たり 岩船の 夕
月色玲瓏たり 広浦の 秋
遥かに望む 村松青嵐の 後
水門の 帰帆 高楼に 映ず
徳川斉昭は、水戸藩第9代藩主です。弘道館や偕楽園を建設したことでも知られています。藩政改革に着手し、全国の諸大名から一目置かれた存在です。水戸を訪れる人も増えたこともあり、徳川斉昭は藩内にある景勝地を8つ選び、それぞれの景勝地の石碑に、自らの名前を刻みました。
8つの景勝地は、「仙湖の景」「青柳」「山寺」「太田」「岩船」「広浦」「村松青嵐の後」「水門」各所に斉昭公の碑があるようです。これらを全部まわると80㎞ぐらいだそうですが、一度訪れてみたいと思います。
清平調詞 其の一 李白
雲想衣裳花想容
雲想衣裳花想容
春風拂檻露華濃
若非羣玉山頭見
會向瑤臺月下逢
雲には衣裳を想い 花には容(かたち)を想う
春風 檻を拂うて 露華濃やかなり
若し 羣玉 山頭に 見るに 非ずんば會ず
瑤臺 月下に向かって逢はん
雲をみて、楊貴妃の衣装を思い、牡丹をみて、楊貴妃の姿を思う。春風が欄干を払い、露は美しく輝いている。これほど美しい人は、羣玉山(仙女の母、西王母の住む山)の山頂でなければ見ることはできない。瑶臺(仙女が住む宮殿)の月明りの下でなければ見ることができないだろう。
李白が、楊貴妃を牡丹に例えて詠んだ詩です。唐の時代、牡丹は珍重されていて、都である長安の興慶宮、沈香亭も牡丹で埋め尽くされていました。玄宗は、牡丹の花見の宴を開いたのですが、そのとき、宮廷詩人だった李白に、清平調に合わせた歌を作ることを命じたところ、李白はこの詩をつくりました。清平調とは、当時、民間に伝承していた旋律、調子だそうですが、どのようなものだったのかはわからないそうです。私は、勝手なイメージですがホ短調を想像しました。
李白は、清平調詩を三首作りましたが、この詩は、其の一となります。この清平調の詩に合わせ、玄宗が玉笛を吹き、楊貴妃が舞い、李亀年が歌ったと、伝えられているようです。この詩は、10月30日の全国詩吟大会にて、企画吟「中国四大美人を詠ず」の中でも吟じます。(その2に続く)