総元代範研修会(その2) 

夏目漱石


今年は夏目漱石没後100年、来年は生誕150年にあたります。8月31日開催の総元代範研修会の研修課題は、夏目漱石でした。


漱石山房(新宿区)





夏目漱石は、明治改元の前年、1867年に牛込馬場下(新宿区)で生まれました。亡くなったのは大正5年(1916年)。まさに明治とともに生きた人物です。
漱石は、「私の父も、兄も、一体に渡しの一家は漢文を愛した家で、従って、その感化で渡しも漢文を読ませられるようになったのである」とか、「元来僕は漢籍が好きで、随分興味をもって漢籍は沢山読んだものである」と語っています。三島中洲の二松學舍に転校し漢籍を学んでいましたが、当時の時代情況から、これからは英語を学ぶべきと兄に説かれ、東京帝国大学へのコースを進むべく、英語に転向しました。
とはいえ、同級の正岡子規を通して、俳句や漢詩の創作に励んだことも知られています。漢詩を作ることは生涯にわたって続けられ、208首が全集に収められています。作られた漢詩は、当時使っていた手帳に筆記されていました。『明暗』執筆中には、一日も休まず、毎日規則正しく、午前中に小説の執筆、午後は詩作を行っていました。人に見せるためというよりは、自らの心の解放のために漢詩を書いていたそうです。

総元代範研修会では、「自画に題す」という詩を学びました。

この詩は、漱石が50才のとき、大正5年春に書かれました。「自画に題す」という詩は多数ありますが、当時、漱石は絵を描くことに凝り出していたそうです。
子供の頃から、絵を見るのが好きだった漱石。『思ひ出す事など』の中に、子供の頃の思い出として、家に五、六十幅の画があり、それらを床の間や蔵の中で代わるがわる見るのが好きだったと漱石は書いています。絵筆を持ったのは、30代後半になってからのようです。最初は、日本画と水彩画のようなものから始まり、さらには彩色の南画山水などを描いています。
漱石にとって、絵を描くことも漢詩を作ることと同じように、自分の精神を安定させるための意味合いもありました。世の中の雑事から解放されるために、絵を描き、詩を作る。それが、自分の心の解放の時間でした。

漱石が影響を受けた絵のうち、特に酒井抱一は、『虞美人草』や『門』の中にも登場します。

酒井抱一の「夏秋草図屏風」は、「中秋良夜瓢風驟雨」を造形したものです。瓢風は朝まで続かず、驟雨も一日中続かないという、永続するものは何もないことの喩えです。(『老子』第二十三章)酒井抱一は俳諧を嗜み、文学と絵画を跨ぐ表現者であったことも、漱石が特に好んだ理由の一つでした。

酒井抱一「夏秋草図屏風」





題自畫   夏目漱石


幽居人不到
獨坐覚衣寛
偶解春風意
来吹竹與蘭

 

幽居 人 至らず
独り坐して 衣(ころも)の寛(ゆるやか)なるを覚ゆ
偶(たまたま)解(かい)す 春風(しゅんぷう)の意
来り吹く 竹と蘭とに





詩文の最初に、「幽居人至らず」とあります。訪れる人もいないような家に、ただひとり座っているわけですが、そうすると、着ている着物がいつのまにか、ゆるやかに、ゆったりとしてくるわけです。






この写真は、漱石が書斎のベランダで、ゆったりとくつろいでいるところです。大正5年の撮影です。新宿区にある漱石山房でもらった資料によるものです。この場所は、漱石の旧居があったところですが、現在、来年完成予定の記念館のために工事中でした。昔は崖が急で、家が建っていたところは坂の上の高台だったそうです。庭を通り抜ける風の心地良さが想像できます。
詩文に「たまたま解す、春風の意」とあります。ベランダに独り座っているときに、漱石は、庭に吹く春風が自分の友であるとふと気づいたというのです。ああ、一人ではなかったんだなあと。風が竹をならし、蘭の香りを運んでくれたことで、そう思ったのかもしれません。

夏目漱石終焉の地(現在、漱石山房記念館建設中)




無題     夏目漱石    

真蹤(しんしょう) 寂寞(せきばく) (よう)として 尋ね難し
虚懐を (いだ)いて 古今に歩まんと 欲す
(へき)(すい) 碧山(へきざん) 何ぞ 我 有らん
(がい)(てん) 蓋地(がいち) 是れ 無心
()()たる 暮色 月 草を 離れ
錯落(さくらく)たる 秋声 (かぜ)(はやし)に 在り
眼耳(がんじ)(ふたつ)ながら忘れ 身も 亦 失う
空中 独り唱歌う 白雲


    この「無題」は、漱石が最後に作った詩です。死の床につく二日前、11月20日の日付が記されていました。

この詩を作る4日前に、こう書き残しています。
「変なことをいいますが、私は、50になってはじめて道に志すことにきのついた愚か者です。」中国の唐の和尚が61才ではじめて道に志し、修行すること20年、80才になって得度し、120才まで人を導いたという例をあげ、「120才まで生きないにしても、力の続く間、何かできるように思う。自己の天分のあり丈を尽くそうと思う。」と述べたそうです。
 この漱石の言葉を思い出し、これからも道を究めんとする意志をこの詩から感じます。

真理の道はさびしく、また深遠で、尋ね難いものである。
真理の道とは、人間が歩いてきた道のこと。
だから、清らかな心、無心の境地でもって、古今の書を読み、その道を歩みたい。
そうすれば、真の道にめぐり会うことができるだろう。
しかし、それはなかなか難しい。


酒井抱一「月に秋草図屏風」

碧水碧山をみると、どこにも我というものがない。
天も地も、無心の姿そのままである。
月が無心のまま、秋草を離れ、空に向かっていくのが見える。

 秋草と月を詠んだ漢詩は、漱石が好んだ琳派の酒井抱一の屏風を思い出します。目に見える情景を思い浮かべ、さらに耳に聴こえてくる林の中の音を読者は想像できます。

 

入り混じるさびしい音のする秋風が林の中に聴こえる。

目や耳という感覚器官、身体もまたこの自然の中に溶け出してしまいそうだ。
身体は失っても、自分はまだ存在し、空中にさまよう。

果てしない虚空の中で一人、白雲の歌を吟じようと思う。

  大空の果てしなき広さ、それは感覚世界を超越しているかのようです。魂魄がこの身から離れていっても、永遠に変わらない大空に浮遊しているかのような、死してもなお生きるということなのでしょう


  漱石が死と向き合った体験を『思い出す事など』を読むことで知ることができました。『思い出す事など』には、修善寺の大患後に、死に直面した出来事について、明晰な文章で綴られています。

 漱石は、神経衰弱や胃潰瘍などに悩んでいましたが、43才のとき、喀血して危篤状態に陥りました。修善寺の大患とよばれるこの体験により、6ヶ月、病床で過ごします。病気の際に感じた心の静かなるものを「縹渺とでも形容してよい気分だった」と漢詩に詠んでいます。「天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住み悪いとのみ感じた世界に忽ち暖かな風が吹いた。」壮絶な苦しみの体験とそれが過ぎたあとの落ち着きの中で書いた文には、生への悦び、人々への感謝の気持ちが伝わってきます。





「自分の位地や、身体や、才能や、すべて己というものの居り所を忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当たり前だと思いながら暮らしている場合が多い。」(『硝子戸の中』)

 日々の暮らしの中で、自分がなすべきことをやり続ける。身体は日々変わっていくけれども、それでも私は前に進むのだと、精力的に生きる気持ちが感じられます。

Life is go on. 
私も好きな言葉です。



 漱石の漢詩や俳句を勉強して、もう一つ興味深かったのは、小説には勿論、漢詩や俳句の中に、南画、書画、水墨画、蒔絵、琳派、陶磁器、琴、琵琶・・日本の伝統的な美術品が登場していることです。明治になり、西洋化といった時代背景の中において、漱石は、江戸の武家が所持していた美術品の価値を非常に大切にしていたそうです。漱石が残してくれたものは、日本の素晴らしい財産だったのだと改めて思いました。漱石の漢詩と俳句もこれから一つずつ味わっていこうと思います。





参考文献

松岡譲『漱石の漢詩』
和田利男『漱石の漢詩』
伊藤宏見『夏目漱石と日本美術』
古田亮『特講漱石の美術世界』
秋山豊『漱石という生き方』
本田有明『ヘタな人生論より夏目漱石』