詩人 菅原道真

東風(こち)吹かば
匂いおこせよ
梅の花
あるじなしとて
春な忘れそ


菅原道真が詠んだ和歌です。
梅の花が咲き始めるこの時期、教室でもよく吟じられますので、菅原道真について書いてみたいと思います。




菅原道真というと、この和歌が有名なのですが、日本最大の漢詩の詩人でもあります。

西暦845年(平安時代)、道真は、三代にわたる学者の家に生まれました。
和歌は5才のときに詠んだそうですが、漢詩は11才のときに作り、父・是善を驚かせたといわれます。
その漢詩は、五言絶句「月夜見梅花」。



自分なりに、現代語に訳してみました。

「月夜梅花を見る 菅原道真」
月の輝きは晴れたときの きらきら輝く雪のよう
月下の白梅は 光る星々のよう
なんて愛おしいのだろう
月が空をころころ移動している 眺めていると
梅の香りが 庭いっぱいに満ちてくる

視覚と聴覚が刺激される漢詩です。
美しい月に出会うと、いつまでも眺めていたい気持ちになることがあります。
月の輝きが、人々に幸福感さえ与えてくれるような、そんな気持ちです。

夢と希望に満ち溢れていた若き日の道真を伺い知ることができます。

道真の才能は、やがて外交官として渤海の大使を接待するにあたり、相手国からも賞賛されるほどになりました。
さらに、学者として最高の位である文章(もんじょう)博士となり、官僚でもあると同時に学者としても活躍しました。
讃岐の県知事として赴任した際には、庶民の飢えや貧困といった実態を知り、その見聞をもとに社会派の漢詩も書いています。
「寒早十首」の中で、どんな人々が厳しい寒さによって苦難に陥っているかを訴えています。
重税や強制労働で苦しんでいる人々のことが詠まれています。
高官でありながら、そのような実態を広く社会に伝えようとする、正義感あふれる人物だったのです。

そのため、再び京都に戻った道真は宇多天皇に抜擢されます。藤原家の影響力に危機感を抱いていた宇多天皇は、藤原家に毅然と対抗できるのは道真しかいない・・と期待しました。
しかし、藤原家の勢力は、当然それに反発することになります。
宇多天皇が残念だったのは、途中で譲位し、まだ12才だった醍醐天皇に位を譲ってしまったことです。
道真は右大臣として、醍醐天皇を支えることになるのですが・・・。
左大臣藤原時平を中心とする勢力が、道真を排除しようと画策します。
醍醐天皇に、道真が廃位を企んでいると吹聴し、まだ幼かった醍醐天皇はそれを信じてしまうのです。
そのため、道真は、大宰府に流されることになりました。時に57才。
道真の4人の子供たちも、土佐、駿河、飛騨、播磨といった各地に流されました。
家族に告げることのできないまま、家族が引き裂かれてしまったのです。
大宰府に発つ時、庭の梅の木を見て「東風吹かば」を詠みました。

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
(「春を忘るな」という表記をしている文献もある)

[訳]
春風が吹いたら
花を咲かせて
香りを私のもとに届けておくれ
私がいなくても
春を忘れないでおくれ

梅を擬人化し、離れ離れになってしまった家族への思いを重ね合わせているように思います。
まだ幼い2人の子供たちだけは道真とともに大宰府に行くのですが、幼くして亡くなったようです。
道真も失意のまま、大宰府で亡くなりました。59才でした。
現在残っている道真の漢詩は、514篇。そのうちの約9割が、主に大宰府の2年間で書かれています。
その後、藤原家を中心とした国風文化が花開くという歴史の過程で、その詩作は忘れ去られました。道真が復讐の怨霊となり、天神として祀られたということの方が有名になってしまいました。学校で使用されている教科書にも、菅原道真の怨霊によって京都に落雷したという記述が強調され、多くの漢詩についての記述がないのは残念です。

詩吟を通して、菅原道真の漢詩に触れ、埋もれている資料を掘り起こしていく作業に意義を感じました。

(引用文献 大岡信『日本の詩歌』講談社、1995年)


☆追記
大宰府での2年間、道真はどのように生きたのかという関心のもとに書かれたフィクションがありました。
澤田瞳子さんの『泣くな道真 大宰府の詩』という本です。
道真が大宰府で生きがいを見つけていくという内容です。
「人は置かれた場所で生きねばならない」という言葉がありました。
道真の最後が本当にこんなふうであったら・・・。
読後は、漢詩に興味が沸いてくると思います!