「渋沢栄一翁と激動の時代」を詩吟で企画構成してみました

2021年11月7日

詩吟神風流創始95周年・三代目岩淵神風襲名記念大会

北区北とぴあさくらホール

渋沢栄一翁@飛鳥山(北区観光協会サイトより)

北区の飛鳥山は渋沢栄一が居を構えた場所でもあります。北区北とぴあさくらホールでの大会にふさわしい企画構成吟として、NHK大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれている渋沢栄一に焦点を当てました。渋沢栄一は漢詩をよくする人であり、幕末・明治維新・日清日露戦争という激動の時代を生き抜いた人物です。

【構成】

1 尊王攘夷の志士として

2 明治政府の官僚として

3 「日本資本主義の父」として

4 「青天を衝け」


1 栄一 尊王攘夷の志士として

渋沢栄一が生まれたのは、アヘン戦争が勃発した1840年。日本にも異国の脅威が迫っていました。NHK大河ドラマ「青天を衝け」にて、「悲憤慷慨」という言葉が多用されていましたが、「悲憤慷慨」とは「正義の気持ちを持つことで、世の不正に憤り、嘆くこと」であり、当時、尊王攘夷の志士を中心に「悲憤慷慨」を吟じる詩吟も広がっていた時代でもありました。ドラマの中で、尾高惇忠が「今この世には、おまえのように悲憤慷慨するものが多く生まれている」と栄一に語っていましたが、幼少の頃より論語や水戸学の教えを学んでいた栄一にとって、彼の行動の原点が「悲憤慷慨」であったことを表す場面だったと思います。

栄一は、尊王攘夷を唱える志士となり、日本という国を変えようと奔走しましたが、その拠り所となったのは徳川斉昭の思想でした。

今回の企画構成では、徳川斉昭の漢詩「大楠公」を詩吟で紹介致しました。

吟詠 松吟会会長 荘田神荘


2 栄一 明治政府の官僚として

幕末、日本は欧米列強の軍事力を目の当たりにし、幾つかの出来事が尊王攘夷は不可能であることを世に知らしめました。栄一もまた24才のとき、一橋慶喜と出会い、もはや尊王攘夷の志士としてではなく、慶喜に自分の志を託すことで幕臣となりました。

栄一は、フランスに遣わされるのですが、その間に、大政奉還となり、明治の世となりました。やむなく帰国した栄一は、帰国後、大蔵省に入省しました。在職したのは短い期間でしたが、維新の元勲らと交流しました。

今回の企画構成では、維新の元勲である西郷隆盛、木戸孝允の漢詩を詩吟で紹介致しました。

栄一は、西郷隆盛については「不言実行の人」として、高く評価していました。また同じく、木戸孝允についてもその人柄を高く評価し、「尽忠憂国の立憲政治家」であると栄一の記録があります。

吟詠 柏新吟詠会副会長 小野塚神通

吟詠 柏新吟詠会会長 名古屋神藍


3 栄一 「日本資本主義の父」として

栄一は33才のとき、大蔵省を退官しました。在野の人となった栄一は、明治期の資本主義の本質を見抜き、日本経済の礎を築いていきました。生涯、約500の会社を作り、様々な社会福祉や教育事業にも取り組みました。栄一の協力者となり、また、栄一が日本の指導者として尊敬していたのは、伊藤博文でした。

伊藤博文の漢詩は幾つもありますが、今回の企画構成では、「飲望樓」を選びました。伊藤博文のこの漢詩は、日清戦争後の講和条約締結頃の作といわれています。



4 「青天を衝け」

激動の時代を生きた栄一の生涯を振り返ってみますと、栄一には、逆境にもめげず、険しい道を前へ前へと突き進んでいくと気概が感じられます。

その気風が表れているのは、長詩「内山峡」です。19才の時、栄一は、家業の藍玉販売のため、奇岩が聳え立つ険しい峡谷を登り、その果てのこの長詩を詠みました。NHK大河ドラマ「青天を衝け」のタイトルの由来にもなりました。

今回の企画構成を行うにあたり、この長詩は、逆境にもめげず険しい道を突き進んでいった栄一の思いが感じられ、今を生きる私たちにも大きな勇気と力を与えてくれるメッセージになるのではと、全文詩吟符付けを致しました。

舞台では、その長詩「内山峡」の中から4行を抜粋し、吟詠発表致しました。



今回の企画構成では、長岡の柏新吟詠会会長・副会長、総本部の二代目岩淵神風先生の教室、総本部各教室の皆様、ご出吟をいただきましてありがとうございました。

ナレーターは、シンガーソングライターでありヴォーカルトレーナーとしてメディアでもご活躍されている水木翔子先生です。